善福寺について

歴史

安土桃山~大正

一乗山善福寺は400年以上前の天正元年(1573年)に、甲斐国の武田信虎(武田信玄の父)の子息、武田上野介信久によって開かれます。

武田信久は本願寺第11代門主・顕如上人に帰依し、出家得度をして「釋教祐」という法名を賜って浄土真宗の僧侶となり、摂津国八部郡二ツ茶屋村(現・西元町付近)に小庵を建立します。さらに教祐は姓を「武田」から「武」へと変更し、これが現代まで受け継がれています。

寛永16年(1639年)に本願寺第13代良如上人により「善福寺」の寺号を授与され、往古境内で交易を行ったことから「市場山」と号し、のちに「一乗山」と文字を改めて現在の「一乗山 善福寺」(いちじょうざん ぜんぷくじ)となりました。

当初は北長狭通七丁目の地にありましたが、明治四年に鉄道敷設に際して中央区下山手通に寺基を移転しています。

善福寺は交易盛んな港町・神戸と共に発展し、八間四面の本堂をもち、神戸で稀にみる荘厳な伽藍をほこる大寺院でありました。(上記写真)

明治41年には本山・西本願寺から特命住職が派遣され別格別院善福寺となります。

しかし大正6年1月24日、東北の隅より原因不明の出火。誠に惜しいことにその大部分を焼失します。

翌日の神戸新聞には『名刹善福寺鳥有に帰す。寺男部屋を残し本堂鐘楼その他ことごとく焼く』と題した記事が掲載。本堂から黒煙をあげる写真と共に「神戸宗教界の権威として幾百千の信仰の目標たりし八間四面の本堂大伽藍の大屋根を打ち抜きドッとばかりに燃え上がり…」と書かれ、遠方から見た人は「花隈が燃えている」とまで表現するほどの壮絶な火災が語られています。

その後、土地を本願寺に譲り渡すことになった善福寺は、現在の長田区御船通の地へと遷り現在に至ります。

旧・善福寺の地には、本願寺神戸別院(通称・モダン寺)が建立されました。

昭和~令和

長田区に遷った後、昭和52年には本堂を再建。旧・善福寺の地にモダン寺(本願寺神戸別院)が建立されたことも影響したのでしょうか。善福寺門徒の三田氏の設計により、斬新な外観を有す鉄筋コンクリート造りの本堂(下図)が完成しました。後の震災では、従来の木造ではなかったこの作りが功を奏します。

1995年1月17日、阪神淡路大震災によって被災。頑丈な造りの本堂は幸いにも倒壊を免れました。また長田区内で発生した火災も目前で止まり、仏像や山門などに軽微な損害がありましたが、奇跡的に大きな被害はありませんでした。

その後は被害を受けた山門を修繕し、現在の姿となっています。

 

神戸で400年以上、初代から浄土真宗のお寺として、法灯と血統を守り続け、本堂を失おうとも土地を移ろうとも、親鸞聖人の説かれた「お念仏の教え」は脈々と変わらずに伝えてまいりました。


これまでも、これからも。「私」と「皆」が、心豊かに人生を生き抜くための教えを伝えるお寺でありたいと思います。

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有志により詳しくまとめられています

歴代住職

法物(ほうもつ)

御本尊「阿弥陀如来像」

約400年前に作られた仏像と考えられ、永く善福寺のご本尊として安置されています。

肉髻が低く、球体の大きな螺髪を表し、細くつりあがった目などの特徴から、中国・明の時代の仏像を模写したものではないかと考えられています。

現在の長田区に移転する前、元町の大伽藍の本堂の時から安置されていた御本尊であり、幸いにも焼失を免れました。

およそ一般的な浄土真宗寺院の阿弥陀如来立像より一回り、二回り程も大きい阿弥陀さまです。

また阿弥陀さまの足元には、小さい御仏像とその台座である蓮をはめ込む穴が存在します。

阪神淡路大震災により破損し、不安定なため現在は取り外していますが、このような形式の仏像は大変珍しいものです。

「真向ノ祖師聖人御影」

(まむきのそししょうにんごえい)

浄土真宗の宗祖(開祖)、親鸞聖人の御掛け軸。

一般的な親鸞聖人の掛け軸は向かって左、ななめを向いています。真正面にこちらを向いておられる聖人は大変貴重です。

本山・西本願寺の御影堂に安置される親鸞聖人の御木像「御真影」(ごしんねい)を模写したもので、本願寺より限られた寺院にしか授与されないものです。